コラムがスタートしました。

こんにちは。

合同会社ゆたか スタッフの日浦です。

普段は弊社の実施するイベントの中でのPA(PublicAddress)スタッフ、撮影スタッフ、映像制作やディレクション業務を担当しています。

このたび、代表の東海林より「ホームページのコラムを任せた」とのひと声があり、こうして筆を執らせて頂いています。

当然のように「なにを書いたら良いでしょう」と尋ねたところ、「自由に書いて良いよ」とのこと。

大変ありがたい話ではありますが、同時に「自由に」と言われると感じてしまうこの途方も無い気持ちは何なのでしょうか。

自由と言えば、

日本国憲法では自由権として、精神的自由権・経済的自由権・身体的自由権というものが定められていますし、

民法にも契約自由の原則があったり、

ふと眠くなって力の抜けた手からスマホは自由落下します。

それほど私たちの生活に根付いた概念ではありますが、嬉しいと同時に困った構念でもあるということです。

人間は、と言えば自由というものに昔から随分と興味を持っているようで、哲学の分野では「果たして人の行為は自由意志か」といった命題はとてもポピュラーなものですし、

他にも物理学においては「神はサイコロを振るか」という議論も有名です。

かの高名なアインシュタインは「神はサイコロを振らない」として量子力学を批判しましたが、彼の主張としては「初期条件と環境条件が一意に定まるのであれば、結果は一意に定まる」ということになります。(細かいことはさて置いた私の意訳です)

この説には、感覚としては多くの人が同意できるのではないかと思います。

原因無くして結果無し、というのは因果律の考え方ですし、物理学の根本原理でもあります。

皆が納得できて反論できないからこその原理なのでしょうが、しかしこの話には「あくまで古典系の範囲に限る」という注択が付いてしまいます。

不確定性原理などを見てもわかる通り、現代物理の立場としては、局所的な実在とは結局のところ、確率の偏在として解釈されます。

唐突に漢字が多くて読みにくい文章になってしまいましたが、要するに、電子や原子やそれ以上のミクロな世界にまで突き詰めると、「おそらくこうなっているらしい」くらいの結論までしか導けない、ということです。

そう考えてみると、このコラムの文章ひとつにしても、1文字1文字を重ねた先にどんな文章が出来上がるのかは不確定であり、

「自由に書いて」と言われた時の途方もない気持ちは、コラムひとつが持っている無限の可能性に思いを馳せているということなのかも知れません。

さて思った以上に自由に書き連ねてしまいましたが、

こちらのコラムは、これからも日々の出来事や仕事のお話し等々について、スタッフが投稿していきます。

ぜひご愛読頂けますと幸いです。